昭和47年01月30日 朝の御理解



 御理解 第89節
 「この方の道は傘一本で開くことが出来る。」

 この方の道は傘一本で開くことが出来る。いと簡単に説いてございますけれども、内容は難しいといや難しい。ね、あーみやすいといゃみやすいと、難しいですね。この方の道というのはどういう道かというと、天地の道理と、天地に道ありと。だから天地の道にそうた、いわゆる道理におうた生き方をすればおかげが受けられるというのである。傘一本で開くことが出来る。昨日○少の方達がバンド演奏をやっております。
 昨日若先生の誕生日でございましたでしたから、若い人達がみんな集まってお祝いに来て下さったり、お祝いをまぁしております。そこでそのまぁいうなら若先生に対するプレゼント曲という訳でしょうか、ここから聞かせて頂きよりましたら、何曲ももう本当に見事に演奏をしています。実に楽しそうです。それをやっておる者も聞いておる者も、いいもんだなぁと、まぁなんともいえんリズムがここへも流れてくる訳です。
 まぁよう一年くらいのことでございましょうか、みんなあのあれを楽器を買い揃えて、それに練習を始めたのが。まぁようここまで出来たもんだなぁ、熱心さえすりゃまぁだ小さい小学校の子供も入っとる。中学、高校で組織した所謂楽団です。小さいそれも本当に上達しております。聞くのも楽しいそれを奏でている者も楽しそうにやっている。ね、私は傘一本で開く事が出来るというのは、そう言う様な事だと思うですね。
 だから信心もやはりね、稽古さして、だから始めの間それこそラッパひとつでもスーともいわない所から、ね、それが音が出るようになり、それがひとつのリズムになるまでには、やはり一生懸命稽古を致しております。是から例えばならもう難しい曲をもっともっと練習して行く事で御座いましょうけれども、もうそれは難しいという、成程難しい事には難しいにしましても楽しいんです。ね、一曲一曲上がっていくに従って、実に楽しい事になってくるであろうと思うんです。信心の道もやはりそうです。ね。
 天地に道ありどういう道かとそりゃ分からない。話を聞けば一つ一つ成程、成程と合点が行く事ばかり。成程そういう道を天地の道というのか、天地の道理というのかと言う事が分かってくる。そこで本気で天地の道理に合うた生き方というものを私共が日常生活の上に頂いていくというか、現わしていくというか頂いて現わしていく訳でございます。成程よりて整うこう、天地の中に起きてくる事であるから、どういうそれが難儀な問題でもあっても天地の道によってすれば、必ず整うんだという訳です。ね、
 それがひとつの問題一つ一つ体験さして頂いて、いうなら一曲一曲上がっていくうちにです、天地の道を行ずることが楽しゅうなってくる。是から先ま、どの様な難儀が待ち構えておるやらも分からないけれども、ね、この信心さえ頂いておればという確信が強うなってくる。ね、いうなら信心が楽しゅうできるようになる。うれしゅう出来る様になる。愈々信心が有り難いものになってくる。成程傘一本で開ける道だと思うですね。だからそこまでは、いうならばその子供達がバンドの練習をやっておる。
 だからここ一年あまりの私は間は大変難しかっただろうと思うです。けれども少しずつ分かっていく事が、ま楽しみで一生懸命ま、熱を入れてやらして頂いておる。そこにおもしろみがで、楽しさがでけてくる。しかもそれはやっておるもんだけではない、聞く者をもやはり楽しい、いうならあのリズムになってくるような、おかげを頂いておるように、信心の道もやはりそうだと。ただ参りよります、拝みよりますというのが、十年、二十年続いたって駄目です。ね。
 その楽器に取り組んで、稽古を致しますようにその問題を通して、私は信心の稽古、その問題を通して、天地の道理に照らし合わせた、ね、天地の道とこの問題を天地の道に照らして、どう受けていくか、頂いていくかという、現わしていくかという事をです、研究しなかったら、稽古しなかったら駄目。そこまで至った時に、いうならみやすうなってくるというのです。傘一本で開くことができる。ね、もういと簡単こんな簡単な御教えはそういくらもないですね。この方の道は傘一本で開くことができる。ね、
 ですからその傘一本が頂かれるところまでいかないけんのです。まぁ楽器の例を取りますなら、なら三味線なんかでもそうです。ね、三すじの糸で、いうなら自由自在の音が出るというのですから。それからじゃんじゃらびきしたとこで出るもんじゃないけれども、三本の糸がやはり二上がりなら二上がり、三下がりなら三下がりと、きちっとその調子が合うたところから、ね、良い音色が出てくる。だからまぁ調子の合うまでが、といわれます。ね、信心もです、その調子がでるところまでは、稽古しなければ。
 それまではきついそれまではしるしい。ね、けれどもどんなにきつかってもしるしかってもです、も、それこそ人間の最大事、まぁその手前の所から人間の真の幸せ、いや真の幸せだけではない、それこそ段々分かれば分かるほど魂の世界、霊の世界が分かってくるようになる。なればなるほどです、魂の清まりを願っておかなければおられない。その人間の一番の大事な問題をです、身につけようというのですから、ね。
 眠たいとかしるしいくらいの事問題じゃない所に、ひとつ気がつかせて頂いておかげを受けていかないけんと思うですね。人間の一生の重大事です。ですからならそれをです、なら大変難しい難しいではなくて、調子が分かるところまで参りますと、後は楽しいということなんです。ね、信心が楽しい、うれしゅう、しかもありがたいおかげをそれに頂いて行うというのですから。金光様のご信心は。金光様のご信心は絶対ご利益は、ご利益が頂けなかったら本当なこっちゃない。
昨日久しぶりで日田の「?」さんがゆっくりされました。ま、色々ちょうど夜のご祈念が終わってからでございましたから、ま、二人で色々お話をさして頂きましたが、先生最近私はある科学者が、もうこの方の書いておる霊学の本を読んでおります。中々好きな方ですから、まぁ信心を所謂学問的にこの分かろうという訳なんですね。霊学なんです。最近もうこれは日本だけではありませんですけれども、世界中のですね、まぁ宗教がいうなら死んでしまってるとこう、その人は言うておる。
 いわゆる宗教に力が無くなったと言っておられる。教祖はこういうておる、宗祖はこういうておるということをいうておるだけで、自分自身が頂いていないというんです。ね、ですから病気ひとつ治らんといったような宗教ばっかり出してしまったと。私はそれを読ませて頂きながら、ハァそういう意味で合楽はほんなもんだなぁと思うたというておられます。なら金光様のご信心の全てがそうと言う事じゃない。やっぱりそういうだしていきよる。だから親先生あなたがいうておられる。
 その和賀心時代を創るなんて大変なことですよという訳なんです。まぁ大変なことは承知の前。ね、例えていうならばです、ね、お道の教師を願われる人達、いうならば本部にその学院が、そこでお道の先生を創っていくわけですけれども。その道の教師にでもなろうという人達がです、本気で自分自身が助かると言う事、教祖の御教えを基にして、自分自身が本当に助かるという、その助かってしまうというのじゃなくてね、この道を歩けば、必ず助かるという姿勢が出来るところまでが大事。
 ですから本部が私の言う事を本当に全面的に取り入れて、成程合楽の生き方でいかなければいけないと気がついた時が、金光教が本当に生き生きとしてくる時でしょうねというてね、そりゃそうですねというお話でございました。ですからこれはお道の教師に限ったことじゃありません。合楽にご神縁を頂いておるみなさんがです、本気で私自身が助かるということに焦点をおかなければいけないです。人じゃないです。その問題じゃないです、よりも先ず私自身がです。
 私自身が助からなければ人が助かるはずがありません。ね、そこでです、私その辺のところをいうならば、いと簡単に説いておるわけです。今日の御理解じゃないですけど、傘一本で開かれる道。私自身が助かるためにはね、こういう生き方にならなければいけませんよと説いておることは、ね、みなさんが繰り返し聞いておられますように、ひとつ本気で成り行きを大事にしなさいよということなんです。ね、あなたの上に起きてくる、いうならば問題、それが難儀であってもです、ね。
 いうなら天地はいうなら天地の親神縁は、あなたの上にそれを求めておいでられるのであるから。一人一人違う私の上に起きてくるいやな問題があります。損になるような問題もあります。痛い思いをするような問題もあります。恥かしい思いをするような問題もあります。ね、けれどもね、それもね、合掌する姿勢でいけというのです。成り行きを大事にさえしていきゃ、必ず道が開ける。まぁそう簡単に説いている訳なんです。ね、ですから段々分からして頂いていくことがです。
 その成り行きそのものがです、実をいうたら神愛の塊の様なものだ。神様が氏子幸せにせずにはおかんという働きの現われなのだ、と段々お話を聞いてくるに従って分かってくるから、最近ではそれに御の字をつけ受けていけとこういう訳なんです。御事柄として頂いていけていけというのが、合楽でいうこの方の道はね、所謂この方の道は大坪総一郎の説くところ、ね、成り行きを大事にしていけば道が開ける。全てを御事柄として、ね、おし頂いて頂くような姿勢を取っていけば、必ずどのような道でも開ける。
 しかもその道は必ず極楽へつながる道なのだ、という訳です。ね、さぁいと簡単に説いておりますけれども、ね、なら実際それが自分の問題になると先生ほかの問題ならば、も、どげな問題でも受けますけれども、この問題だけは受けられんというわけですね、皆さん。ね、瀕死の状態の人をです、ね、もう金やらはいりません。この人を助けてもらえばとこういう。金に難儀をしておる人はです、それこそ体が弱いくらいのことはよかて、いゃもう私の命がなかってもかんまん。
 こういう大金、大きな例えば金なら金の問題にです、難儀をしておる沢山の人にご迷惑をかける。だから私の命に引き換えてでも、そのおかげが頂きたいと、と言う様な所謂難儀と言う事は、だからどういう難儀であっても実をいうたら同じだと言う事です。人間関係の問題であろうが、経済の問題であろうが、病気の問題であろうがです、本当に死ぬほどにと言う所になって参りますと、みんなおんなじです、難儀というものは。
 それが天地に道ありというその道を行じさして貰い分からして頂く所からです、ね、開けてくるのが道である。私今日ご神前に出らして頂きましたら、スイカをねこう七夕さんに上げるくらいのスイカをこう切ってのを頂いた。それがまぁだそれがま、ちょっと若いんです。まぁだおいしゅなかろうと言う様な感じです。熟れてもない。少し桃色ぐらいかかった、しかもこりゃまだ若い。まぁ何日かおかんならんと言った様なスイカをひと切れ頂きました。
 「七夕さんは、棚から落ちて腰打って、痛さこらえてスイカひと切れ」という。私どもが様々ないわゆる棚から落ちるような難儀を感じます。もう腰のうたんごつなる。もう這いも立ちもできんごとある。これは健康だけのことじゃありません。人間関係だって、経済の関係だって、本当に足腰立たんようにひどい思いをする。ね、そこでです、そこから立ち上がらせて頂くことのために神様は必ず修行を求め給うのです。そこから助けて下さろうとする働きが始まるのです。
 これはもう人間氏子の上に全部、それがあるのです。信心があってもなかっても。それを気がつかずに難儀というのであって、ね、それを信心さして頂くもの、ここでは修行の事をいうスイカのことを修行と申します。いうなら水火の行もいとわないという訳なんです。ね、ですから本気でその修行をさせて頂くというて、いうてもです、ま、させて頂いておるというてもです、やはり修行にもひとつの時期があると言う事ですね。頂く時期というのが。早すぎてもいかん遅すぎてもいかん。
 丁度よいという時期があるのです。ね、ですから信心さして頂いておると、その時期を頂くことができる。それまでが辛抱なんです。自分自身が助かるということ。成程この道を行けば、助かるという自信ができてくる、助かり方ということ。そこんところを私は体得する、本気で自分が助かりたいという願いを立てさして頂いて、自分が助かるということなんですからね、本当に。それが段々その成り行きを、大事にさして頂くとか、ね、御事柄というような、頂き方をさせて頂いておるうちにです。
 もう一時が万事、細々な事の上にも、大きなことの上にもそれを本当に有り難いと受けて行く事がでける様になる。所が中々小さい事大きい事はどっこいと受けられても、小さい事は受けられないと言った様な事があったり、もうその位な事なら受けるけれども、それこそ目の前が真っ暗になる様な事は受けられないと思うたりする事が御座いますよね。私今朝から毎朝幹三郎と二人でここに三時半に出て参ります。
 それから三十分間ありますから、天地を遥拝さしてもらう、金光様にご挨拶してもろうて、それからあのもこれは必ずというていいほどです、毎日ここ誰かが掃除を受け持ってやってくれておるわけですけれども、その置物が置いてあるんですよね、いろんな小道具が机の上に置いてあるのがいつも位置が違うんです。これがで私はその位置が違うのをいつも毎日、それをおんなじ位置に幹三郎が毎日不思議に思うだろうと思うぐらいに必ず私がそのきちんとまぁ何点かの物があのこの私の感覚に。
 ここが一番良いと思う所へこう直す訳です。あくる日になると又是がちょっとそれている訳ですね。まぁ毎日毎日の事でどうして分からんじゃろうと。是はもうひとつの不平ですよね。所が私今朝から気が付かせて頂いたんですけれども、是がこうよがんでおると言う事であったり、位置が違っておると言う事は、ハハァ昨日もお掃除をしたんだなぁと言う事なんですよ実をいうたら。ですから毎日毎日ここん所をお掃除をしてもろうておる事が、有り難いという方が強いわけですね。
 今日は。今まではそんな些細な事ですから別にどうとも思わなかったけれども思わんじゃない、ただその毎日しよってから、どうして分からんじゃろうかと言う様なものが心の中にはいつもあった。不平というものまでもはいかんでもそうなんです。厳密にいやぁやっぱ不平なんです。ね、けれどもこうよがんでおったり位置が違っておると言う事は、毎日あつこうてこう、所謂是下までも拭いたり掃いたりしとんなさる証拠だと思わせて頂いたら、それが大変有り難いものになって来た。
 三代金光様の所にある方がご機嫌を伺いに出られた。お孫さん達がもうそれこそ襖を破らんばかりにそのバタバタとごえよんなさる。それでいったその先生が金光様にも大変お賑やかな事でございますなぁというてご挨拶申し上げたら、はいよく働いてくれますと仰った。もう大変よく働いてくれますと仰った。子供達がもうそれこそもうお座敷であろうが、どうであろうが障子を破ったり、襖を破ったりして、そのとごえておると言う事。ハァーもうわるそどんばっかりで困りますと仰らなかった訳です。
 金光様の目には、もうよく子供は子供なりに働いておるとしか、ご覧になっていなかったということ。そういう頂き方が出来てくる所に、ね、不平もない不足もないと言う事になってくるのじゃないでしょうかね。困ったと言う事もない。困ったその問題そのものがむしろ有難うなってくる。ね、私ども周辺の煩わしい問題がです、おかげでよく働いてくれますと。確かに信心さして頂いておりますとね、不平不足を言わんですむではなくて、もう確かにもう思わんですむほどのおかげが頂けてくるのです。
 そこに始めてその人の助かりを感じます。だから助かると言う事は、そう言う事なんです。第一心配がない。腹立ちがない。不平がない不足がない。ね、そういう生活ができるもんかと言う事は絶対ないです。天地の道をわきまえて、その道を行じていっておるならばです、もうそうしなければばからしゅうなってくるのです。まぁ極端な言い方ですけれども腹を立てちゃばからしか、もうおかげに繋がる事だもの。関係する事だもの。もう不平不足どもハァ思いよったらばからしかです。
 もうおかげにそがしこひびがいる。ね、だからばからしいから腹を立てんばからしいから不平言わん思わんとじゃなくてです、段々言わんで済む思わんで済む、腹を立てんですむというおかげが頂けて来る様になる。だからこの生き方さえ頂いていけばです、ハァーこれは自分でもなれるぞという所までが、私は助かりだと思うんです。助かりの糸口に立ったんです。だから是を極めてさえいけば、自分は助かる事ができるという、そういう所までおかげを頂いたらそこから必ず開けてくるのがおかげの道であります。
 傘一本とはそういうような事だと思うです。なかなか完璧という事はできないにも致しましてもです、まぁいうならば、そのこと事態も御事柄として頂かしてもらう、成り行きとして頂かしてもらう。だから段々合楽の皆さんの場合なんかは、大抵な事はそれで出来るごとなったけれども、大きい事がでけん。かというてこんだ小さい事はもうしだごだというような感じがしますね。これは私を始めそうなんです。
 こげんとここげん所にこげな風に置いてから、というのではなくてです。その次の瞬間に、ハハァこれは毎日毎日お掃除をしてもらってるしるしだという頂き方が、しかもね始めてそんな気持ちにならせて頂いた。今までは長い間、毎日毎日私が必ずそれだけ手を取らないかんこれは毎朝。とこうやって直して回らなでけん。けれども今日からはそれがどういうことになるかというと。
 ハァ毎日掃除をして貰いよる証拠であるですから、掃除して貰いよる人達に、どうしていつまで分からんじゃろうかじゃなくて、その人にいうならば陰からお礼が言えれるということになるのです。この方の道は傘一本で開くことができると道という道をです、私は、今日は楽器に例えましたですね。バンドの人達が、ね、あんなに上手にもやれるようになったし今日も何曲も何曲ももうあげておる。それが見る者をして、聞く者をして、又はそれを奏でる者をして楽しゅう、または楽しく聞こえてくる。
 信心させて頂く者の姿がです、成程信心ちゃえぇもんだなぁと信心のない者んでもです、感じてくれる所まで信心を高めたい。又は自分自身も信心がしるしいもの、ハァこりゃもう一生お参りせなんじゃろうかてなんて思わずにです、一生参る事が出来るというなら、こりゃ素晴らしい事だ。手足のかなう間はおかげを頂かしてもろうて、本気で信心の稽古をさして頂けると言う事が有難いのだ、楽しいのだと言う事になってこなければならない。そういう気持ちが出来る所までが、私は傘一本だと。ね、
 そういう気持ちが出来たら、神様も喜んで下さるだろう、安心して下さるだろう。だから安心がでける。その神様が喜んで下さる喜びが返ってくる。神様が安心して下さる安心が私どもに響き返ってくるのですから、ね、なるほど傘ということを安心という風に頂きますけれども、そういう安心がでけたところからなるほど傘一本で開くことが出来る道だということが分かります。傘一本頂くまでが、まぁいうなら修行であります。ね、そんな修行とてもです。
 なら何時間修行したからというてそこに物見遊山見えると言う事ではない。矢張りそれは時期が来て、熟してちょうど頂き頃というのか必ずなんの場合でも時期があります。その時期を大切にさして頂きながら、ね、傘一本で開かれる道をひとつ本気で体得さして頂きたいと思う。体得してしまうとこんなに見やすい事という事になる。ね、例えば芸者さん達が、お三味線を弾きよんなさるとに、もちょいとこげん難しい事なかと思うて弾きゃござらん。ね、もうそれこそ自分も楽しゅう、ね。
 雰囲気をいよいよ盛り上げていけることが楽しい。ね、けれどもなら全然その楽器に心得のない人は、ちょいと難しいこっちゃある、三本の糸だけで音色を出すちゃと思うようですけれども、本気で稽古をする事になってまいりますと、そのように楽しいものであります。信心もそうです。参る、拝むだけじゃいけません。本気で稽古する気になると、ね、そこから信心がもこよない楽しいものに、しかも有り難いおかげが伴のうてくるおかげが頂かれるのです。ね、
 しかもこれはね、それを体得させて頂くという事はね、もういうならば極楽につながる道でもあるのですから、どうでもここだけは体得しておきたい。取分けお道の教師でも志すという人は、先ず自分自身が助かるという事がそのような事なのですから、ね、自分自身が助からずしといて人が助かるはずは絶対ありません。ね、ならこれはお道の教師に限ったことではありません。合楽にご縁を頂く人の全てがです、本気で、あなた自身が助かるための稽古をなさいと申し上げたいわけであります。ね、
 この方の道は傘一本で開ける道、いと簡単に説いておられますけれども、今日私が申しましたようなところを、いわば体得して始めて傘一本で開ける道と、いと簡単に道が開けてくるしかも楽しゅう開けてくるありがとう開けてくるというわけであります。どうぞ「というようにちょっとこうそういうヒントを与えてくれただけで、私の心の中にはもうそれこそ雲一点、曇りのない心でそれを承れれる心が頂けておる、そういう心を白紙だと言う様に聞いて頂いたわけですね。?」
   どうぞ。